不登校の陰に潜む孤独|次女の心の声に耳と心を傾けた結果

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もりー
もりー

自閉症スペクトラム姉妹の母で、ホームエデュケーションを実践しているもりーです!

7月5日、金曜日。時刻は午前7時44分。

昨夜は眠くて眠くてブログを書けなかったので、昨日書きたかったことを今朝のうちに書いておくことにする。

昨日、次女があることについての本音を漏らした。

その本音とは、次女自身が長いあいだ抱えていた心の闇の一部のようなものだったらしいのだが「ついに言語化できた!」ということだった。

次女の本音を知った私は、現代の子どもたちの生きづらさを、改めて再確認することとなった。

子どもの気持ちの代弁者として、今日は綴ってみようと思う。

子どもの不登校に悩む親御さんをはじめ、教育保育の関係者の方々の目に留まることを、あえて願う。

次女が特定のショッピングモールに行きたがらなかった理由

うちから車で40分ほどの場所に、コストコとショッピングモールがある。

仮に、そのショッピングモールをAモールとする。

かれこれ4年ほど前からだろうか・・・次女は特に、そのAモールに行くことをイヤがった。

これまで本人自身でさえも、Aモールに謎の苦手意識を感じる理由をわかってはいなかった。

それが昨日ついに!

言語化できたのだった。

しかし。

次女はそのワケを私に、簡単には教えてくれなかったのである。

簡単には本音を明かさなかった次女

わたし、なんでAモールが苦手なのかわかった!

母

え?!教えて!!!

おしえな~~い!これは私の問題だから。

こんなやりとりが続いた。

特に引っかかるのが、これは私の問題だから、というところ。

なにが何でも教えてもらわなければいけない理由もなかったのだが、ふと、こんなことが思い浮かんだので、実際に聞いてみた。

母

今日の夜、ママが寝てる間に死んじゃったとするじゃん?そしたらさ、“あぁ、ママが生きてるうちにこの話を聞いといてもらえばよかったな”って思う?

すると・・・

あぁ、そうやって言われちゃうとそうだよね。話そうか迷ってたけど、もしママが死んじゃったら・・・と考えると、話しとけばよかったって思うよ。

という展開になり、次女は話すことを決めたようだった。

私の問いかけが、ちょっぴり卑怯な感じに聞こえたら申し訳ない。

しかし私は、いたって普通にそんなことを思いついてしまう人間なのである。

なのでここは勘弁してほしい。

次女が語った本音

次女は小学1年生の11月ぐらいから、本格的な不登校になり始めた。

現在は小学5年生なので、丸々3年半以上は不登校ということになる。

次女と2つ違いの姉(現在中1)は、小学4年生になってから不登校になり出したので、不登校でいえば次女の方が先輩だ。

長女がまだ学校に通えている頃、私と夫と次女の3人で買い物に出かけたことがあった。

それがそのAモールであった。

次女は語り始めた。

あの時お姉ちゃんは学校に行ってたから、私とパパとママと3人で行ったじゃん?私はあのとき、ほんとうは学校に行っていた(べき)時間だし、ほんとうだったら夫婦2人で行ってたはずだよね?

ちなみにその時に購入したのが、Yogiboだった。

私は長女におみやげを買って帰ろうと、Yogiboショップで次女と相談をし、スクイーズを選んだ。

あのとき、お姉ちゃんにおみやげ買ったじゃん?ほんとうは私も、おみやげとして欲しかったんだよね。自分は学校に行っていなかったから、パパとママと一緒に買い物に行ったわけで、だからおみやげとしては受け取れなかったけど、ほんとうは私だっておみやげでもらいたかったんだよね。

次女はこの辺りから泣きがちになってきた。

だからAモールに行くと、学校に行けてなかったっていうあの時の自分をすごく思い出しちゃっって、なんかね、すごく孤独感を感じていたことを思い出すんだよね。

つまるところ。

当時当時小学1年生だった次女は、不登校だったことにより、めちゃくちゃ孤独感にめちゃくちゃさいなまれていた、ということだったのである。

Aモールに行くとどうしても、あの時の孤独感をどうしても思い出しちゃうんだよね。カラダが覚えているっていうか。

だからAモールに入ると思わず泣きそうになるんだよね。だから行きたくなかったんだよね。

ここまで聞くうちに、私も思わず泣いていた。

こんなにそばにいるのに、これまでもずっとそばにいたのに、子どもの本音にたどり着くことがこんなに難しいことだったとは。。

わかっているつもりは、どこまでいってもつもりである。

子どもからしてみたら「わかったつもりになってんじゃねぇよ」という感じであろう。

いや、実際にそう言われても、反論の余地なしである。

親子の対話の重要性|不登校であっても不登校じゃなくても絶対に必要!

ひとことで対話と言っても、それは言うほど簡単なことじゃない。

それは私自身、身を持って知っているので、痛いほど知っているつもりだ。

もちろん言語化能力が伴わないってこともあるし、単純に言えないってこともあるだろう。

それに、人の気持ちというものは、いろいろなことが絡み合っていてものすごく複雑だし、ものすごく深い。

私自身、次女のAモールが苦手な理由を予想し、実際にいくつも投げかけてみたが、結果、まったく的外れだったわけである。

浅はかな自分が恥ずかしくなった。

このことについて私は、stand fm. で話してみた。

大変ありがたいことに、LIVE配信中にいくつものコメントをいただいた。

参考になるコメントや、そこから派生した話の内容もなかなかに深いので、ご興味のある方はぜひ一度聴いていただけたら嬉しい。

今回、次女との対話を通し、やっとやっと知ることができた次女の本音。

次女自身が自分の気持ちを言語化できるまでに丸3年以上かかっているので、ここに到達するまでのトータルの時間と考えると、ちょっと気が遠くなる。

これまでにもAモールには何度も足を運んでいるので、そのたび、次女の不機嫌な顔や、不機嫌な振る舞いを、私は何度も目にしてきた。

その頃の光景を思い出し、私は思う。

次女を叱りつけなくてよかった

と。

いや・・・

もしかすると私が覚えていないだけで、叱りつけてしまったこともあったのかもしれない。

昨日私は、次女の気持ちを深く想像もせず、浅はかなことばかりを言ってしまったことを、素直に次女に謝った。

これで、これまでの私のすべての過ちをなかったことにしてもらえるとは思っていないが、親だって完璧ではない。

だからこそ、1回1回の対話が大切だと考えている。

対話には、わかりあえないかもしれない、傷つけてしまうかもしれない、そんなリスクが常に孕んでいる。

わかりあえない、傷つけてしまうかもしれないからこそ、

本気で「わかろうとする」姿勢が重要なのだ

と、私は信じて止まない。

親子であっても違う人格なのだから、わかりあえないことは仕方がない。

最もどうしようもないことは、

  • わかろうともしない姿勢
  • わかったつもりで自信満々な傲慢さ

だと私は思っている。(自戒を込めて)

 

これが現実|現代の日本で不登校になると

ホームエデュケーションに本格的に切り替えてから、1年8ヶ月が経過したもりー家。

不登校を完全に受け入れ、学校につれていくこともしない、登校刺激もしない、という日常を掴み取るまでには、かなりの時間を要したし、壮絶な紆余曲折があった。

現代の日本において子どもが不登校になるということは、家族の人生が変わると言っても言い過ぎではないと私は考えている。

私の場合は外に働きに出ているわけでもないし、自宅でしごとを始めるまでは、子どもたちとの暮らしにひたすら専念してきた。

私の場合、現代の日本においては“専念できる環境に恵まれていた”と言い換えることもできるかもしれない。

加えて、子どもの不登校は家庭だけの問題ではなくなる。

祖父母・ご近所さん・学校の先生などなど、

当事者以外の人たちも加わり、問題として取り沙汰される

のが今の現実だ、というのが私の率直な感想である。

ここで、不登校家庭が抱える家庭の一般的な流れ極めて個人的な見解を記しておくことにする

  • 親は多方向からプレッシャーを与えられ、(与えている側は無自覚だろうが)
  • 親は“自分のどこが悪かったのだろう”と自責の念に駆られる
  • 親にそのつもりがなくても、親が抱えているプレッシャーのしわ寄せはやがて、子どもに及ぶ

今の日本ではまだまだ、不登校はタブーとされている。

逆に、我が子が不登校になることを望んている親は、何%いるだろうか?

私は、ほぼゼロに近いのでは?と想像する。

望んでいなくても、そうなってしまうのが不登校。

望んでいない方向に進んだ先に待っているのが、マイノリティのプレッシャー地獄

これが私が感じている現実である

 

我が子の不登校を恐れる親たち|怯えながら子育てしなければならない現代の日本は異常だと思う

こんな現代日本で、我が子が不登校になることを恐れている親たちは少なくないはずだ。

子どもが「学校を休みたい」と言った途端、家庭には不穏な空気が流れる。

そして親は「明日は行けるよね?」と、決まり文句を子どもに突きつけ、なんとか不登校を回避できるようにと努める。

これはかつての私がやって実際にとってきた態度であるが、おそらく今でも多くの親たちが、私がこうしてうブログを書いている今も、子どもの不登校回避に頭を悩ませている親はきっといると思う。

故に子どもは自分の本音を親に明かせないのである。

当然だ。

親に、あるいは先生に話したところで、

  • 明日は行けるよね?
  • サボるのは良くない
  • このまま学校に行けなくなったら将来どうするの?

などと、決まり切った質問を交えながら、子どもは責め立てられるのだから。

こんなこと、子どもだってわかっている。

十分にわかっているのだ。

それなのにもかかわらず、わかっていることを何度も目の前に突きつけられ、プレッシャーを与えられ続ける。

これが連日続いたら、子どもの逃げ場はどこにあるのだろう。。。

そりゃぁ生きる希望を失い、自ら命を絶ってしまう子どもが増加している現実に、何の不思議もない。

こう書いてしまうと「親が悪い」と主張しているように聞こえるかもしれないが、まったくそのような意図はない。

なぜなら、かつての私自身がすべて経験してきたことであるからである。

そうなると、「先生のせいにしたいのか!」という野次が飛んできそうであるが、これについても以下同文である。

もうもはや、誰のせいでもないというのが私の立場だ。

「じゃあどういうつもりなんだ?」と聞かれたら、私の意見はこうである。

手の施しようがないところまで来てしまっている

まったくもって身も蓋もないような意見であるが、これが私の率直な意見なのだから仕方がない。

 

私がマイノリティのシアワセテツガクを発信し続けているワケ

だからと言って放っておくわけにもいかない。

正確に言うと、放ってはおけない、というのが私の性分である。

かと言って、私なんぞが発信をしたからと言って何かが変わるなんてことは、微塵も思っていない。

じゃぁなぜ書いているのか?

その理由は、

子どもの幸せを心から願う方と出会いたい

と、私自身が切に願っているからである。

実際にstand fm. で発信するようになってから、同じような想いを抱える方と、ひとり・またひとりと出会うことができている。

じゃぁ、その方たちと繋がって何かするのか?といえば、まったくそういうことではない。

じゃぁ何のために発信し、出会っていきたいと思っているのか?

その答えはこうである。

子どもの幸せを心から願い、心細い想いを抱えながらも、不登校の子どもたちと力強く生きている方たちと励ましあいながら、今ある幸せに目を向けられること

年々深刻化している不登校問題、子どもの自殺。

これから先、これらの問題が良い方向へ向かうことはないだろうと、私はすでに諦めている。

しかし、“生まれてきたくなかった”と思ってしまう子どもが増加していく・・・

こんな悲しいことは他にあるだろうか?

こんなことを想像すると、私はどうしようもない気持ちになって落ち込む。。。

 

次女の本音|通えるところがあれば、そりゃぁ学校行きたいよね

私がホームエデュケーションに切り替えたあとに次女が、

ママホームスクーリングをしてくれたから、私たちの居場所ができた

と私に言ってくれたことがあった。

このときの私は、素直に嬉しかったし、正直なところ、ずっと安心して過ごしてきてしまっていた。

しかし、今回の次女とのやり取りを通し、

こうだったら安心

なんてことは1つもないのだ、ということを再確認することとなった。

実際に次女との対話を通し、「今でも学校に行きたいと思うことはある?」という問いに対し、

通えるところがあれば、そりゃぁ学校行きたいよね

という答えが返ってきたのである。

かと言って、今の生活に不満を感じているということではないらしい。

ホームエデュケーションの現在の暮らしには満足しつつ、欲を言えば、ということなのであろう。

学校へ行かなくても大丈夫かどうかを決めるられるのは、最終的には本人のみ

今回私は学んだ。

「学校に行かなくても大丈夫だよ」という大人からの言葉は、一見優しくも見えるが、けっこう無責任であるということを。

子どもの心の一次避難に対する言葉の頓服として、「学校に行かなくても大丈夫だよ」という言葉を使うことは、大いにアリだと思っている。

逆に、これ以外の言葉が、私には見つからない。

しかしこれはあくまでも、一時的・短期的に有効な言葉なのかもしれない。

不登校も長期化してくると、これらの言葉の効力はどんどん弱くなってくる。

子どもからしてみたらそりゃぁ、将来のことに不安を感じるのは当然である。

それこそ呪文のように、「学校へ行かなくても大丈夫だよ」と言われても、何がどう大丈夫なのか聞かせてほしいという心境になるかもしれない。

少なくとも私が子どもだったら、そんな疑問を抱えてしまうような気がする。

じゃぁ、長期的な不登校になった家庭の場合、どうしたら良いのか?

私自身もまだまだ道半ばであるため、明確な答えはもっていない。

とはいえ、今のところはこのように考えている。

「不登校でも大丈夫」という言葉を多用せず、冷静に未来について娘たちと話しあうチャンスを大切にする

というわけで、今回はこの辺でブログを締めくくろうと思う。

自分の娘たちと共に進む、不登校人生。

まだまだ私の不登校研究室は続きそうだが、これもまた面白い人生である。

さぁて、今日のお昼は何食べようか。

それではみなさまごきげんよう!

もりー