最近、インスタグラムのリール動画を作るようになり、少しずつ使い方がわかるようになってきた今日この頃。
そんな中でふと、新たな発見と疑問が浮かんだので、ここから自分なりに出した結論を書いていきます。
※あくまでも、素人の見解であることをご理解下さい。
動画編集から考える、現代っ子たちの時間感覚
動画というものは、実はものすごいスピード感で進んでいることに気づきました。
当然と言えば当然なのかもしれませんが、私はこれまで、そこまで深く考えたことがなかったのです。
なぜなら、YouTubeにせよインスタのリールにせよ、かつての私の日常に動画を観る時間はほとんど組み込まれていなかったからです。
動画を作るのは「分」、観るのは「秒」で進む世界
リール動画の編集にまだまだ時間を要する私は、動画の一区切りに割り当てる時間も、何分というレベルで時間がかかります。
それに対し、実際に再生される時間は、ものの数秒程度。
なんなら、コンマ何秒という世界だったりするから驚きです・・・!
ものすごくきれいにサラッと流れていく動画の裏側には、ものすごい時間と手間がかかけられているということを痛感しています。
そして次第に、動画では見えない部分にこそ人間生活のリアルは存在するのだろうと、私は思うようになりました。
テレビから動画の世界へ!昭和っ子と現代っ子の感覚の違い
ここで一旦時代の比較をもって、メディア環境の変化を考えてみようと思います!
※独断と偏見が混在しますこと、先にお詫び申し上げます。
昭和っこ
- ダイヤル式のチャンネルを使ったことがある (手首や指先を使う)
- ビデオが登場するまでは、見逃したら最後! (昔々、風雲たけし城の最終回を見逃し、信じられないくらい大泣きしたことを今でも記憶している)
- 頭から離れないCMソングがいつもどこかに存在していた (ポリンキーポリンキー三角形の秘密はね)
- もちろんCMはとばせないし、オープニングもエンディングもとばせない
- テレビの出演者と番組制作者≠視聴者 (全く違う立場に在る)
現代っこ
- リモコンを通り越し、アレクサ(声)で操作可能?
- そもそも「見逃す」という概念はあるのだろうか?
- 頭から離れないのはテレビコマーシャルよりも、YouTubeやTikTok?
- 観たいコンテンツを好きなプラットフォームで観ることができる
- 視聴者≒動画制作(提供)者≒インフルエンサー (インフルエンサーになれる可能性はとても身近なところにある)
こうして考えてみると現代は、とても便利になり様々な可能性が広がったことがよくわかります。
一方で、自信の好みに偏りが生じやすいというデメリットもあると考えます。
加えて、
出来上がったもの(完成形)にフォーカスが当たり、
見えない部分はなおざりになりがちです。
また、時間の観点で言えば、たった5分間もあれば、膨大な量の動画の視聴が可能であるのに対し、(観ているとあっという間に時間がすぎるという逆説)
5分間で作れる動画と言ったら、ほんのわずかであるという現実。
時計が刻む時間はずっっと変わらないけれど、人間の暮らしの営みのペースは、ものすごく加速していることを痛感します。
こうして自分なりに分析を進めているうちに、1つのことが思考に浮上しました。
それが、
大人が『多動化』しているのでは?
ということです。
子どもたちは大人の監視下のもとで暮らし、様々な評価をされながら生きています。
子どもたちを「多動だ」と軽々しく判断する大人の多くは、おそらく
昔と比べて、今の日本教育において
ということになるのではないでしょうか?
比較の対象があるからこそ「多動だ」と感じるわけです。
そしてそれは主観でしかないはずです。
比較の対象が、別の国だったら?別の時代だったら??
これはあくまでも、日本で暮らす母親目線から感じることです。
ちなみに、ドクターや何らかの専門家から頂く『診断』とは、まったく別のおはなしです。
理由その1・過去の常識が通用しない時代の中での子育て、大人も情報を追いかけ続けている
テレビ1つ取り上げてみただけでも、たった数十年の間に、目まぐるしい環境の変化があったことがわかります。
正直、私自信が時代の変化に対応できているか?と言ったら、まったくもって自信がありません。
昭和世代は、スマホがない時代を実体験をもって知っており、だからこそ、過去と今の比較ができる。
しかし、現代の子どもたちは、物心ついた時にはスマホがそばにあるのがデフォルトなのです。
親子であっても感覚がずいぶんとかけ離れているであろうことは、想像に難しくありません。
その上、常に洪水レベルの子育て情報は、ますます親を混乱させる要因に。
ここでちょっと冷静に考えてみます。
- 新鮮そうに見えるその情報は、すでにもう過去のものになっているかもよ?!
- 専門家が言っていることでさえ、我が子にとって100%正しいとは限らないかもよ?!
加えて、
- できるだけ早い解決を求めるあまり、情報を追いかけ続けたり
- できるだけ早い解決を求めるあまり、子どもに何らかの判断を下そうとしたり
ついそうなってしまうのが、人間のサガというものなのではないでしょうか?
理由その2・リアルライフとネット世界、これらの時空間のギャップを埋めるのは、大人もけっこう苦労していると思う
これは私自信が体感として感じていることです。
SNSを頻繁に更新するようになり、リアルライフとの行ったり来たりが頻繁になればなるほど、地に足がついていない感覚に陥るのです。
SNS疲れという言葉はよく耳にしますが「きっとこういうことなのだろう、私の場合は」と思います。
手のひらに収まる画面の向こう側は、とてつもないスピードで時間が流れている、そんな感覚。
画面の向こうの様々な場所で、様々な人々が、それぞれに呼吸をし、生きている。
そんな現実が、見えては消えて見えては消えて・・・
まるでどこでもドアのデジタル版のよう。
まるで、どこでもドアみたい。
いつの間にか、こういう時代に生きている私たち。
自然と大人たちの暮らしの営みも加速し、多動化してるのではないかしら?と、自分も含めて思わずにはいられません。
まとめ
少子化、発達障害など、様々な課題が山積である現代。
先にも書いたように、目まぐるしく変化する時代の中での子育ては、複雑さが増しているのが現実だと思います。
しかし本来、子どもというものは元気でいてくれたら良いし、幸せでいてくれたら良いと、どの親もそう願っているはず。
にも関わらず、そのシンプルな願いをうっかり見失ってしまうことも多々あるのも、また現実なのです。
このような現実を見据えながら教室運営している者として、今後どう在りたいか?と自分に問うてみる・・・
すると、浮かんだ答えはただ1つ、
子どもたちに歩み寄り、保護者の方との対話を大切にする
これに尽きます。
問題がゼロになることなんてないし、情報との追いかけっこにうっかり参加・・・という状況に陥ってしまうことは、誰にでも起こり続けること。
そして、子どもたちは子どもたちの感覚があり、これからの時代を生きていかなくてはならないのです。
私なんぞが無責任なアドバイスをしたり、気休めの「大丈夫」という言葉をかけることは、できません。
しかし、歩み寄って相手の様子を感じてみたり、腹を割って対話することはできます。
目まぐるしく、地に足がつかないような日々を生きていたとしても、じっくりと対話をする時間をもつことで、ひとまず着地するくらいのことはできるような気がするのです。
ひとりの母親として、そして大切な時期の子どもたちと関わらせて頂く立場の身としても。
短絡的思考にならないよう、様々な角度から物事を眺め、また挑戦を続けていきたいものです。
というわけで、最後までお読みくださりありがとうございました。
それではみなさまごきげんよう♬