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現在、小学生の娘たちはホームエデュケーションがメインの生活をしています。
今となってはこのスタイルが我が家のデフォルトモードになりましたが、着地ポイントを決めるまでの過程は、「ほとんどしんどかった」というのが正直なところです。
ホームエデュケーションを実践しているということは、つまり、世の中的には不登校ということです。
現在の日本での属性としては、まだまだマイノリティ。
というわけで、これまでの経緯をここから書いて参ります。
学校からの離脱|当時の母の心の動き
いきなり不登校になるお子さまもいらっしゃるかと思いますが、我が家の場合は、幼稚園児の時からその兆候がありました。
幼児期の詳細はあえて書きませんが、同年代の他の子と同じようにはほとんど通えていなかったということだけは添えておきます。
【長女】小1~4年生・母子共にボロボロになることが多々
楽しく学校に通えていた時期はあったものの、学年が上がるにつれて、学校へ向かう足取りが重くなって行きました。
登校班で通えたことはほとんどなく、娘たちの調子を見ながらの毎日送迎をしていました。
この頃は、片道10km先にある次女の幼稚園の送迎もあったので、私は心身共に疲弊する日々。
加えて、学校生活のストレスが蓄積されると、長女の様子にも変化が・・・!
それはたとえば、書いた文字を消し続ける等の、強迫行動に近い様子が出てきたのでした。
そうしてようやく母は悟る・・・
「これはもう限界のサインなのだ」と
と。
とは言え、いきなりホームスクールに移行したわけではありません。
というよりも!
いきなりその決断をすることは、まだまだ世の中的にむつかしいと思います。
なぜなら、それが許される風潮ではないと強く感じるからです。
というわけで、
長女にとって無理ではない範囲を模索しながら、休み休み登校するというスタイルがしばらくの間続きました。
【次女】小学1年・感覚過敏が大爆発!何も着られなくなるという衝撃
次女は幼稚園を卒園するまで、ほぼ毎朝泣いていました。
つまり、幼稚園児の頃から、集団の中で過ごすことが苦手だったということです。
そんな感じなので、もちろん、小学校の入学式は欠席。
そしてその頃、日本はパンデミックの真っ只中にありました。
世の中はカオス状態でしたが、学校に行かなくても良い状況が、次女にとっては平穏な日々だったように思います。
余談・壮絶な感覚過敏のはじまり
世の中がパンデミックの流れを引きずっていた頃、次女は小1の冬を迎えていました。
その頃から次女は、服を一切着られなくなっていきました。
下着も靴下も、ぜんぶ、です。
当時、その状態に1番戸惑っていたのは、紛れもなく本人です。
次女はどんどん笑顔を失っていきました。
日中でも寝ている時間が長くなり、ちょっとしたことで癇癪を起こす、そんな日々。
次女がついに靴も履けなくなった真冬に、私が悟ったこと。
それは・・・
心だけが死んでしまうことってあるんだな・・・
ということ。
死んだ魚のような目をしている次女と、毎日ほとんど片時も離れずに過ごした日々。
その日々の中で私は、自分自身の覚悟をさらに深めることになりました。
- 子どもたちを腹の底から尊重する
- 絶対に子どもたちの心を守り切る
というわけで次女はが学校に通っていた時期は、
小2~小3のある時期、午前中のみ(情緒の支援学級)
です。
【母】苦悩×挫折=覚悟
子どもたちの悲惨な様子を目の当たりにするたびに、「人はこうして心を病んでいくのだな」ということが、痛いほどわかりました。
目の当たりにするたびに、と書いたのは・・・
そうなのです、
私は子育てにおいて、何度も何度も同じような失敗と過ちを繰り返してきたのです。
学校を気軽に休ませるという文化がほとんどないこの国と地域で、多くの人は「学校には行くべき」という概念を持っています。
つまり。
世の中のどこかに所属している以上、私たち親子は、学校はもちろんのこと、我々親子をとりまく人々とも、折り合いをつけなくてはなりませんでした。
そしてそれは、ほぼほぼ、母親のしごとです。
加えて、
子どもが学校に行かないことを認めている母親は、子どもを守るべく、盾となって日々ドッシリと構えていなくてはなりません。
時には気持ちが揺らぎ、不登校を認めている自分を責めたり、大きく自信を失くしたりした時期もありました。
しかし、
私の決断に正解をくれたのは、娘たちだったのです。
次女は少しずつ少しずつ笑顔を取り戻し、自身の障害に対する苦悩について、私に話してくれるようになりました。
長女からも、強迫行動レベルの繰り返し行為は見られなくなり、家ではユニークさを全開で発揮するようになりました。
次女からの最高の褒めコトバ。
ママがホームスクーリングをして私たちの居場所を作ってくれた
これにはとても衝撃を受け、今でも鮮明に覚えています。
こう考えてみると・・・
大人がが考える居場所と、子どもが感じている居場所は、
「一致していない可能性も大いにありえるよ!」ということを、過去の自分に向けて書き記しておきたいと思います。
まとめ
ホームスクールを本格的に切り替えてからというもの、これまでにないくらい、穏やかな暮らしを手に入れることができました。
それはおそらく、家族全員が満足した生活を手に入れた証であるとも思っています。
不登校に関してメディアなどで取り上げられることが多くありますが、それはどちらかと言うとネガティブな情報がほとんどだと感じています。
ですので、当事者ではない人たちの理解という観点からはほど遠いというのが私の肌感覚です。
地域性や世代間でのギャップももちろんあると思います。
それに加えて、学校に行くのが当たり前で育った私たち親世代。
この過渡期に、苦悩しない方が不思議なくらいかもしれません。
私がこれまでにたどって来た道は、
過去に培ってきた当たり前をすべてひっくり返し、新常識を0から積み上げてきた感覚です。
加えてその常識でさえも、いつかまた覆る可能性があることをどこかでわかっているのです。
だから、私にとっての常識の定義が変化した、というのが今の私の感覚です。
ここまで来るのには、ものすごく苦しい選択の連続ではありましたが、私の人生にとってはものすごく貴重で、ここから学んだことはとてつもなく大きい。
恥やプライドのほとんどは手放してきました。
何かの選択に迫られるたびに「子どもから笑顔を奪うことにはならないか?」が、揺るぎない判断の基準に。
次第に、私自身も日々の判断疲れから解放されて行きました。
様々なことが削ぎ落とされた今、私の判断基準はとってもシンプルです。
子どもの心を死なせない
私が子育てにおいてもっとも大事にすべきは、この1点のみです。
というわけで、今回のおはなしはここまで!
靴が履けなくなった次女は、3年以上経過した今でも靴は履けません。
靴下も履けません。
そんな彼女が愛して止まないアイテムが、草履です。
学校に行っていた時は、上履きとしても草履を使用していました。
感覚過敏などで悩まれてZいる方のヒントになりましたら幸いです。
それでは、最後までお読み下さりありがとうございました。
それではみなさまごきげんよう♬